「あなたにとっての究極の料理は?」と訊かれたら。
僕は「目玉焼き丼」と答えます。
ごま油をひいて焼いた目玉焼きをごはんにのせ、
ポタポタとしょうゆをたらして、というシンプルな一品。
目玉焼きにはソース派やケチャップ派もいらっしゃると思いますが、それらと比べて、しょうゆはすこし奥ゆかしいですよね。
華々しさよりも奥深さ。
主役を支えながらも、決して前には出すぎず、すっと馴染んでしまう。
まるで演技派俳優のようです。
小さい頃、アメリカに行くことが多かったのですが、数日の滞在であってもいつもの味が恋しくなって、当時、現地のレストランで「ソイソースをもらえますか?」と聞いたりして。
そうすると、店員さんが「OK、キッコーマン!」と答えてくれて驚きました。
いつもの食卓にあるものがここまで届いているのかと感激しながら、お肉にしょうゆをこっそりかけた想い出があります。
大学時代はニューヨークで過ごしました。
そのつながりで、大人になって、現地で食関連の仕事をする友人から、一流の料理人たちがメニューによってどのしょうゆを使うべきかを考えていること、「うまみ」や「だし」などの日本の食文化が土地に浸透していることを見聞きし、いいものはちゃんと世界に届くのかとまたしても感激。
「外」から見るからこそ、価値が見えてくる。
この視点はしょうゆや食文化に限らずだと思います。
170年前から続く日本舞踊・名古屋西川流の家元としても、その気づきが今に繋がっていると思います。
僕らの流派では、「創造なくして継承なし。継承なくして創造なし」という言葉が大事にされてきました。
自分たちの想像以上に、もっと広い世界が外にある。
伝統にあぐらをかかず、イノベーションを起こそうと、日本舞踊をつかった健康体操NOSSの普及や、現代美術とのコラボレーションも行っています。
以前、テレビ番組で伊勢神宮のお伊勢参りのナビゲーターをした際、昔から神様に捧げるものは、原理に近く、それでいて時代を越えたものなのだと感じました。
米、酒、塩、味噌、しょうゆも、流れる時代と共に在り、その時代を生きる人に「良い」とされたから恒久的に愛されてきたはず。
「シンプルという究極」は、その時代に呼応したからこその姿だと思うのです。